昭和51年02月02日 朝の御理解
御理解 第66節
「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」
この世に出て来て、そしてまたあの世に旅立たせてもらう。人間の一生というものが真実神の気感に叶うた、天地の道理に合うた生き方をさせて頂くと言う事を、教祖金光大神は私共に取り次いで下さる、教えて下さるのです。人間は勝手なものでとこうありますが、私は、金光教の信心をしない者は勝手なものであると、頂くのが本当だと思うんですね。だから、お道の信心をさせて頂く者は、勝手な生き方をしないと言えるくらいに、私は勝手な振る舞いとか、勝手な生き方をしない。
言うならば天地のルールを間違えない。違えずに生活の出来れる道を、教祖金光大神はハッキリと、しかも誰でも出けるように教えて下さってあるのですから。ね、所が実際は金光様の御信心を頂いておりましても、いわゆる勝手なものだという、勝手な生き方をしておる者が、もうほとんどと言うて良いくらいではないかと思うのです。ね、天地の道理を、言うならばそれは天地のルールです。
だからルールを間違えた生き方が、いかにもいわば勝手が出けると言うと楽なごとあるですけれども、実際はそうじゃないです。ルールを間違えた生き方は大変難しいんです。第一に不安です心配です、お先はもう真っ暗です。それでいてまあ(しがみころ?)とは言いながら、ルールも何も守らずに銘々勝手、自分勝手な生き方をしておるのです。それは、教祖金光大神はそのルールをハッキリ教えて下さるのですから。
そのルールを守らなければ、やはり金光教の信心を頂いておっても、勝手なものじゃと言う事になるのです。ね、一つ、本気でね、そのルールを体得する。天地の道理を分からしてもろうて、道理に合うた生き方をする。決して難しい事ではない。そのルールを間違える方が難しいのである。ね。天地の御恩徳を分からせてもろうて、愈々天地の御恩徳に対する神恩奉謝の生活をさせてもらうと。
天地の道理に合うた生き方をさせてもらう。ね。例えて言うならば、この寒修行を境に、一つ何を分からせてもろうたかと言うと、ここん所を分からせてもろうたと言う所を、今日は聞いて頂こうと思います。昨日、昨日はもう朝から大変もう、お参りが多うございました。もう、本当に九州中からお参りが、ま、して来たような感じでした。長崎、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀福岡はもちろん。
もう九州全県から昨日はお参りがあっとおりました。ね。そんな訳で大変お広前が賑わっておりましたから、次々とお取次ぎをさせて頂いておりました。昨日4時頃だったでしょうか、日田の竹内さんがお参りになった。今日は私の誕生日でございます。もう今年はもう、正月早々から風邪引きでどうも具合が悪かった。だからこの2月の1日から一つ生まれ変わったような気持ちで。ね、
一つおかげをおかげの、ま、月、日々でありたいというので、まっ赤飯を炊いてそれこそ祝う心で、まっお願いなりお礼参拝がございました。そういう一つの何か心に心機一転といったようなものを私感じましたから、玉串を作らせました。そしてそのお供えをお供えさせてもろうて、そして玉串を上げてもらいなさいと言うて、私は次々と一生懸命他の方のお取次ぎをさせてもらいよりましたからね、うかつにしてた。
そしたら竹内さんが玉串を持ってここへ出て来ておられる、御霊様の前に。フッと見たらお供えも御霊様にお供えしてある訳ですよ。そして玉串を持って、もうまさに手を打とうとしておらす時は、ちっと待ちなさい待ちなさいと言った様な事でございまして。これはもう貴方御霊様てん何てん、ちゃんと見てお赤飯のちょっと赤いあれに熨斗がついといてから、神様にお供えをして、神様に今日の誕生のお礼の玉串を奉りよんなさっとに、そげな 御粗末を気がつかんくらいに。
こっちの方ばっかり気取られとったもんですから。けれども間一髪あのすぐあのお供えを下げて、それから玉串あんは替えてから、神様の方へ玉串を上げて頂いた様な事でございました。ほれはもう御霊様に( )こんな間一髪じゃった。けれども私は帰られてからその事を皆に話した事ですけれども、やっぱり心機一転と言う事は生まれ変わるという事だと思うです。ね、
もう過去の自分は無くなった、ね。今年は正月からあまり良い事がなかったから、二月の一日から生まれ変わったつもりで、自分の誕生を記して心機一転のおかげを頂きたい。この後の十今年いっぱいではない、十一ヶ月をおかげを頂きたいと願うと言う事はどう言う事だと言うと心機一転、今までの生き方を変えると言う事だと私は思うです。ね。それも、生まれ変わったと思うてこの世に生まれて来て、そして死ぬるまで勝手になら、この世に言うなら日柄も方位も言わずに出て来ておりながら。
その途中ばかりをしだごだ言うて、そして死ぬ時もまた、日柄も方位も言わずにかけっていぬると言う様な、言う事になるというのも、人間が勝手な生き方をするからなのだと。だから、金光様御信心を頂く者だけは、勝手な生き方はするなよ、こういう生き方があるの、こういう素晴らしい道があるのぞと教えて下さるのだから、なら勝手な生き方を金光教の信者は皆しておるかと言うと、なら金光様の信心頂いておっても、勝手気ままな生き方をさせてもろうて。
ただ言うなら病気治し災難よけの神様のように思うて信心を続けておったんでは、いつまで立っても素晴らしいおかげになって来ないです。頼みの信心じゃない。拝むだけじゃいけん。ね、この方の道は話を聞いて助かると仰るから、その話の全てが天地の大恩であり、天地の道理である。その天地の大恩が分かれば分かるほど、大恩に報いまつる生活をさせてもらい、天地の道理を分からせてもろうて、ルールに添うた生き方をさせて頂くと言う事が、一番尊く有り難くね間違いのない生き方。
それでも人間の事ですから、どこに間違いがあるか分かりませんから、そういう生き方をさせて頂くと心に決めて一心心機一転、ね、そして例えば一日なら一日を締めくくって見るとですはああそこも、ルールを立ち違えとった、あそこも道理に合わない言い方をしたり思い方をしたり、又はあのそういう道を歩かなかった事に気付かせて頂く。ね、そこにです私はお詫びの信心というのが、あると思うです。ね。
ルールを間違えないように、間違えないようにと言うて行きよっても、矢張り人間凡夫の事であるから、どこにお粗末があるやら、御無礼があるやら分からない。そこに私はお詫びに、まっ徹するという人すらあるくらいですが。ね、お詫びをする。そこに詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るのですから。そういう生き方を愈々身につけて行っておる内にです、ね、間違いのないしかも自然にすんなりとルールに添うた生き方が出けるようになるのです。ね。
この様な(本当?)有り難いとこです。詫びれば許してやりたいのが親心じゃと。初めからもうルールを守らないという生き方は、これは許し様がない様な感じがするけど、それでもやはり、詫びれば許してやりたい。ね、今日も一日どうぞ天地の道理に合うた生き方をさせて下さい。一切を神様の御働きの中に、御恩恵の中にあるのでございますから、御恩恵に対して、神恩奉謝の心を持って有り難い、勿体無いで今日も一日過ごさせて下さいという、祈り願いを持っての生き方をさせて頂かなければなりません。
私は今朝方お夢を頂いた。私はもう改めて本当に皆さんに、皆さんにここの所を徹底して、本当に有り難く頂いてもらいたいと思います事はね、今日はそのお夢の中にこの、ここには御神米が入ってます。この御神米のこの箱の上にフタを取ってあるんです。そして、ここに白紙が敷いてあるんです。ちょうどこの上に。その白紙の上に御神米が山と積まれておるんですよ。ね。
それで私夢の中でほおこんなに沢山御神米を、あのこの紙の上に積んであるが、この重みで中にすとんとだいたい御神米が落ちなきゃならないわけです。所がきちっと何か板か何かのように、その白紙の紙の上に、こう御神米が山積みされておるとこを見て、これは、どうしてこれ中に落ちんじゃろうかと思うたら、神が支えておると、こう仰るのです。神がね、神様が支えて。合楽の御神米と言うと、こう語弊があるかも知れませんけれども、金光様の御神米というのは、そういう素晴らしいものですよ。
もう絶対どんな素晴らしい薬よりも、どんな膏薬よりも、まっ効くというじゃおかしいでしょうけれどもね、おかげが頂かれるです。ね、それはもう本当にどういう、なら例えばあのこう、顔中火傷をした人が御神米ピタッと貼って、あのその御神米が段々ボロボロ取れて来る。取れて来るだけ傷が治ったという人があります。と言う様にだから医者に行って白い薬をいっぱいあの塗ってもろうてやって来ました。ほれでお話を頂いてもう当時の椛目でしたけれども、ね。
早速それをきれいに洗い落して、綺麗に拭いてそれであの、御神米をつけて下さいちゅうから、私がお神酒さんをに浸して。そして御神米ピッタリこうつけてやりました。毎日家を出る時には、お医者さんに行きよると言うて、その子供さんを連れて参って来てそしてそうですね、一月足らずでおかげ頂いた。まだあの時分のを記憶にしておられる方があると思う。久留米の(塚原さんです?)、歯医者さんです。ね、もう御神米が取れる、はげるだけ、傷が段々きれいに治って行ったです。まあ、ね。
だから皆さんが合楽で頂かれる御神米というのは、もう本当に勿論お粗末御無礼があってはなりませんけれども、そういう神様がこうやって支えておって下さる物ですから、ね、おかげを頂かないはずがないです。私は昨日から一昨日から、まあ色々お話を聞いて頂いておりますけれども、例えば一昨日は年よりを大切にせよという御理解でしたよね。いわば、大切にすると言う事、年寄りを尊ぶと言う事。それはどういうなら人であっても、尊ばなければならない訳を聞いて頂きましたよね。
これはだから年よりだけではない、もう昨日の御理解に入りますと、人間を軽う見な軽う見たらおかげはないと仰せられるのですから、年よりだけではない、もう人間の普通で言うならあれは、ちと足らんとじゃなかじゃろうかと言う様な人でもです、ね、それを軽う見てはいけないと。それはなら昨日の御理解をまた引用すると、人だけではない。一切の事柄だってそうだと、一切の物だってそうだと。なぜそういう風に尊ばねばならないか、惜し頂いて頂かなければならないかと。
信心が分かれば分かるほどと言う事は、天地の大恩が分かれば分かるほどと言う事です。天地の道理が分かれば分かるほどです、そうしなければおられない。ね。天地の親神様の氏子に変わりはないです。多少器量が良いの悪いと言うけれども、神様の可愛い氏子に変わりはないです。その氏子にね、値札をつけると言った様な事ではいけない。昨日も申しましたように、いつかむつやの信司さんが、ね。
少しまあ言うなら頭の弱い、誰も相手にしない人がおりましたが、丁度お広前のあの隅のところで、もう芯から話を聞いたり、話をしたりして、まあ言うならば普通の一人前、ある者同士のようにしてお話しよるのをこっから見て、私がねあそこへ下りて行って、信司さん、有り難うと言いたいような気がしましたもんね。これはそのまま大坪総一郎じゃない、神様がね、神様が信司さんどうも有り難うと言われると同じ事ですよ。ね、という事はどう言う事かと。ね。
そういう生き方をする、そういう道理に合った生き方をする事がです、神様がお礼を言いなさるような働きになって来るんです。これが積もり積もって行くと。人だけではありません、物でもそうです。ね、昨日のお説教の中に、直子の例を取りましたが、最近もう本当に四六時中、一生懸命の信心修行に打ち込んでおります。信心が有り難くなって来ると、一切が有り難うなって来る。毎朝ストーブを消させて、5分前に消させてもらうが、消す前に一生懸命そのストーブを拝んで消します。
昨日は朝ここへ出て参ります時に、もう、時間になりましたから私はもう一人で出てこうと思って、ふすまを開けた途端に直子がそのふすまの向こうのローカで御祈念をしておるのに、こう一緒になったんです。もう本当にね心が愈々有り難うなって来たら、一切を拝まなければおられなくなって来るです。ね、それこそひとすくいの水でも、一粒のお米でも惜し頂かなければおられないです。それは天地の信心が分かると言う事は、天地の大恩が分かる。生かされて生きておる喜びが分かる感じる。
その生かされて生きておるその喜びを持って、天地一切の御物御事柄、ね、をこう尊ばせて頂かなければおられないという生き方がです、身に付いて行っておるのです。ね、そうさせて頂く事を、神様が喜んで下さると言う事は、それこそ信司さん有り難うと言うて、私がお礼を言いたいような心持ちがです、神様の心の中に動くのです。神様の御物をです、ね、ポンと粗末にするのと、神様の御物を、はあこれも( )それを生かそうとする。惜し頂いて生かすという働き。
神様が喜びなさらんはずがない。神様がお礼を言いたい思いをなさらないはずがない。ね、金光様の信心をさせて頂いて、愈々分かれば分かるほどです一切が、ね、これは一昨日から昨日からの御理解を見て、それこそどういう年寄りであろうが、頑固爺であろうが、ね、こんにゃく婆であろうがです、それを尊ばせて頂かなければ、なぜ尊ばねばならないかという訳が分かったんですから。それを尊ばせて頂こう、大事にさせて頂こうという生き方を身に付けなければいけません。
そういう一つのルールを神様は教えて下さるのです。御物でもそうです、御事柄でもそうです。すべて様々な事が起こって参りますけども、ね、困った事とか、なら何とか言ってるけども、それは神様の御働きなんです。だからその御働きを惜し頂く思いで頂いて行くという生き方を身につ付けて行く。贅沢な事はせんです。ね。自分分相応の生き方をさせてもらう。しかも、それを惜し頂いて頂いて行くという生き方は、ね、天地の大恩が分かれば分かるほど、そうしなければおられないのです。
それから次の私はお夢に私に似合う着物は、あのどういう着物が似合うかと誰かが言ってるんです。そしたらああ親先生はあの、紬のあのかすりのような、あの着物を頂いております。まあ言うなら上下買うとすれば50~60万はかかるだろうと言う事です。親先生はあの着物が一番お似合いになりますとこう、言っておるんです。次にはこんな熨斗袋を何枚も(出て?)、それに末永先生とか、西岡先生とかがこう肩書きに書いてあるんです。それを先生方に一枚、一枚こうあげておる所を頂いたんです。ね。
似合うと言う事は、私に釣り合うたと言う事でありましょう。ね。だからなら私は50~60万もするような着物を着ておっても、それは私に釣り合うたままであるならば、それは有り難いのです。所が借金してからでも、それば買うてから着ろうと言う事は間違いです。修行生の先生方に例えばあの、名前が書いてあってその熨斗袋の中にいくらかのお金が入ってるらしいのですけれども、それを渡しておると言う事はなぜ品物で、なぜ着物で渡せなかったかと言うとですね。
この範囲で過ごして行けよと言う事であると思いました。ね。このね着物じゃ分からん布じゃ分からんわけです。だからこの範囲で過ごして行けよと言う事だと。そういう生き方はもう天地の道理にピッタリ合った生き方なんです。ね、そういうね生き方を身につけて行くと言う事それにはですそれこそ竹内さんじゃないですけれども、ね、2月1日の自分の誕生日を又新たな生まれ変わりの日としてです。今年はどうも一月から一日から風邪引きで寝たり寝込んだりして、まあ言うならロクな事はなかったから、
2月の1日から新たな気持ちで、新たなおかげを頂く為に、赤飯炊いて神様にお供えをしてお願いに参って来ておると言う事は、ただそういう赤飯をお供えしたから、拝んでもろうたからこれから言うなら良い、良い事が続くと言った様な考え方は甘い。金光様の御信心は、病気治しや災難避けの神じゃないのですから。だか、生まれ変わったと思うてです。ね、(9月?)1日から言うならば、愈々天地の大恩に報いる生き方。
天地の道理に添うた生き方。ルールに合った生き方をさせて頂くと、心機一転させて頂く生き方が初めの間は、今まであまりにも無茶苦茶な生き方をして来ておるから、お互いが。ね、ちょっと窮屈なようにあるけれども、そのルールを一つ覚えてしもうたらです後は、そのルールをもう切られる方が難しい事になって来る。ちか勿体無うして切られられん。もう馬鹿らしゅうして腹は立てられんというのと同じ事です、本当の事が分かったら。ね、そこでです愈々天地の大恩を分からせてもらい、ね。
天地の道理を分からせてもろうて、その大恩に報いると言う所に、一切を惜し頂くという事が言えるのです。ね。天地の道理を踏まえての生き方。ね、そこに今までの自分の生き方というものを改めて行くと言う事になるのです。一切を惜し頂くある人がある共励会で昔でしたけれど。ね。御神米もお米も同じだと。御神紙も障子紙も同じだと。そうね。だから、その障子紙そのものを大事にしなければいけない。御神米もお米も同じだから、お米を矢張り大事にしなければいけないというお話をされました。
それで私はその後にすぐ立ってから、私が話しました確かにそうなんです。ね、御神米もお米も同じと思うてお米を、一粒のお米でも惜し頂かにゃいけません。障子紙一切れでもあれを御神紙と思うて丁重に扱わなきゃいけません。天地の大恩が分かるとそういう風になって来るんです。けれどもここに違う事は、ね、なら障子紙と御神紙は違いますよと。お米とおよねは違いますよと言う事を。
皆さんここん所は間違えちゃいけませんと言うて、これは私の信者時代でしたけども、その話をして大変まっ拍手喝采を受けた事がございます。ね、皆さんそこん所を分かって。ね。もうそれこそ障子紙一枚でも御神紙と思うてですよ。ね、惜し頂かなければいけません。頂く思い神恩奉謝の心というのはそういう心なんです。ならこの一粒でも御神米と思うて惜し頂く心がなからにゃいけんのです。ね。
かと言うてならばそのお米とその障子紙が御神紙と、又はお米とは違うと言う事は、今日の一番お夢の中に頂いておりますように、この御神紙とこの御神米は、神様が特別に支えておって下さる物だからと言う事なんです。皆さん今日はここん所を分かって頂きたい。ね、同時にです私共は言うならば御神紙と思うて紙一枚でも、ね、御神米と思うて米一粒でもと言う様な生き方を身につけると言う事は、矢張り天地の大恩が愈々もって分からなきゃいけん。天地の道理が愈々分からなきゃいけない。
それにはです本当に一つ本気で直子の事じゃないですけれども、ね、四六時中をもうそれこそ水も漏らさんような生き方をです1、本気で身につけて参りよりましてです、ね、あらあ、忘れとったち言う様な事は絶対ないです。心の中で一生懸命神様ば頂いとる時には。修行中という時には。もう一切を惜し頂かなきゃおられんのです。ね、そういう惜し頂く心と、ね、それから道理を教えて頂くのですから、道理に合った生き方をです、愈々身につけて行くという事がです、ね。
勝手な生き方をしないで、ね、神様の言うならばお働きを感謝し、神様が発信して下さる人間の真の道を歩かせて頂くと言う事になるのじゃないでしょうか。人間は勝手な者じゃと仰るが、金光様の御信心をする者は、いわば勝手な者であってはならない。自由気ままにいかにも良いようであるけれども、自由気ままはです、ね、それは本当のおかげには繋がらない。言うなら金光様の御信心をする者は、勝手は許されない。だからいかにもそれが窮屈かと言うと決して窮屈ではなくて、ね。
その生き方を身につけたらその生き方がいよいよ有り難いと言う事になる。それが真の道である。ね、だからせめてね、合楽に御神縁を頂かれる方達は、勝手な人間でないおかげを頂きたい。ね、神様のお働きに対して、神恩奉謝の心を持って生活をする。神様がハッキリ示して下さる真の道を歩かせて頂く。ね、そういう事が、スッキリと自分のものになる事のために、信心修行があるんだ。この寒修行でそういう信心の鍛えをさせて頂いたのですから、この寒修行をいわば境にです。
心機一転生まれ変わったと思うて、天地の道理に合うた生き方をさせてもらおう、天地の大恩に対しまつって。
(B面へ)
頂き直して。ね、一昨日から昨日はなぜ年寄りを粗末にしてはいけないのか。ね。昨日の御理解がなぜ人間を軽う見てはいけないのか。ついては人間だけではない、物を軽う見てはいけない。ね、御事柄を軽う見てはいけないと言う事を、言うならば今日の御理解の内容を頂いておったんですから。ね、そこんとこを愈々一つ身に付けて行く信心修行に励ましてまして頂かなければいけません。私今日の御理解を頂いて、ね、これを本気で身に付ける。これを焦点にお互い日常の生活がなさらなきゃいけない。
それが基準になるものです。ね、お道の信心例えば信心を頂いておっても矢張り、ね。ルールも守らん御神恩も分からない。ただ頼むだけ拝むだけとするならばです。結局今までどっかそこにあった、ね、悲しい時の神頼みの神様で同じ事になります。自分ないっちょん教えを守らんどいてから、神様にだけ言う事を聞いて下さいて言ったっていかんです。まあそう言う事簡単な事じゃないですけれども。ね、まっ一つ本気で天地の道理を体得しようと。天地の大恩を信心修行によって分からせてもろうて、ひとすくいの水でも一粒のお米でも惜し頂かなければおられない信心生活者になりたいと思います。
どうぞ。